出張という名の鉄道旅から見えた風景

この十数年、昔のように鉄道やバスに乗ることを目的として旅をすることが無くなった。一方で新たな旅のスタイル、というか、密かな愉しみとしていたのが会社員としての「出張」だった。

厳密にいえば「旅」ではない気もするが、週末に近い曜日の出張は、そのまま週末の自由な旅に切り替えたり、帰宅までのルート上を周遊したり、一定の旅費と移動時間が浮くというのはサラリーマン旅行者には有難い。

ある時、博多で週末に仕事が巡ってきて喜び勇んで“出張旅行”に出掛けた。

本来の目的である昼間の業務は、それほど難しい内容ではなかったはずなのに出来が芳しくない。日暮れ時には何とか片づけたものの、業務を終えた後の解放感がまったくなく、翌日からどこかへ出掛けられる晴れ晴れしさも湧いてこなかった。

こんな時に限って博多から遠く離れた郊外の街にある宿に予約を取っていて、もやもやした気持ちを抱えながら帰宅客で混雑し始めていたJRの通勤電車で都心から下った。

陽が落ちたなかで都会から郊外へ向かっていく通勤列車は、同じ空間にいる通勤客のように帰っていく場所がないためか乗っているだけで寂しく、昼間の仕事の出来もあいまって虚しさまで湧いてくる。しかも適度に混んでいて座れない。

こんなところで何をさまよっているのか、すぐに首都圏の自宅へ帰りたい気持ちになってきたが、「富士」や「はやぶさ」といった夜行列車はすでに廃され、今から中心部に戻って新幹線や飛行機を使っても自宅までたどり着ける時間は過ぎようとしている。

見たこともない郊外の街にある宿へ行くしかないと諦め、ドアの窓から見える夜の風景を眺めてると、どこかの駅に停まってドアが開いた。

昔ながらの低いホームの先端には屋根もなく、少ない明かりに蛾が舞っているだけで人の気配は見られず、田畑を宅地化したような郊外感があふれている。

虫が入ってくる前にドアを閉めて出発してくれないか、と念じていたら、夜のなかに見える丸い灯りが大きくなり、低いエンジン音を響かせてディーゼルカーが向かいのホームに現れた。

どこかくすんだ白地に巻かれた青いラインの気動車から薄暗いホームに吐き出された黒い人の群れが、こちらの通勤電車に吸い込まれる。降りる客ばかりだった車内は活気を取り戻した。

こんな小駅にも通勤客がいて、毎日決まった時間に支線から本線へと客の受け渡しが行われている。

わずか十数秒に満たない光景だったが、もう半世紀近くは走っているはずのディーゼルカーが頼もしくて格好が良く、夜のなかで輝いて見えた。

旅の愁いがあったからこそ心に沁みた風景かもしれないが、何十年も鉄道の旅を続けてきた答えがここにあったように思える幸せな一瞬だった。

こんな景色をもう一度見れないものか、と密かに期待して“出張旅行”を続けてきたが、夜に都心から見知らぬ郊外へ下るという寂しさは耐えられそうにもなく、繁華街の宿と酒で仕事後の解放感を味わうことが日常となっている。

寂しさや虚しさのなかでしか見られない風景があるのだと分かっていても、冒険はできていない。

(2023年8月公開)